【備忘録・後】【中3】震災後文学
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5.多様な「文学」作品 (――2学期に向けて)
・鴨長明『方丈記』 (古典)
震災に関わる記述…「年経にし後は、語り出づる人だに無し」を、当時の死生観や社会情勢とあわせて紹介。先取りを行っていないため古文への馴染みが薄い生徒たちだが、一定の効果はあった。
◎「東日本大震災」だけによらない、「震災」と「人間」との関わりを読み取ることができた生徒が少数だがいた。次の作品群に向けて、「災害は、社会に変化をもたらすか、それとも元々社会が抱えていた問題を顕わにするのか」といったような視点を生んだのは、古い作品を敢えて紹介したからかもしれない。
△後悔ではないが、たとえば関東大震災後に生み出された作品なども併せて読めると、より「文学の役割」というテーマに向けて生徒たちの考える材料が生まれたのかもしれない。また、原発事故や津波災害の特殊性も際立つことになる。(1年あっても足りなそうなうえ、大災害だけにフォーカスする必然性が薄れるが)
・和合亮一『詩の礫』 (徳間書店、2011)
被災した詩人・和合亮一が、Twitterを通じて震災や原発事故を目の当たりにした感情を、むき出しにして発信した詩を、日付ごとにまとめた作品。フランスの出版社「Corlevour」によるニュンク・レビュー・ポエトリー賞を受賞している。4月9日のものを配布。
→ときに暴力的になる言葉の羅列。しかし言葉の一つ一つが、当時のあらゆる人々の想いを代弁しているようにも読めてくる。余震がリアルタイムで起こるライブ感と、怒りやむなしさという感情の爆発。つらい。
→私の好きな一節:「余震。地の波。私たちをあらためて追い立てる、激しい精神。(中略)宮城県沖、震度六強。もはや、宇宙からの断罪。」「ならば、私たちは無実の罪だ。福島よ、東北よ、もういいじゃないか。せめて私たちには、牙を剝くな。私は何億もの悲しい馬たちの狂奔を、止めたいのです。たてがみを優しく撫でてあげたいのに。」
毎日、必ず「明けない夜は無い」で終わる。
◎この詩が響く生徒は、(引用した)レポートの質も一段と良かった。作品についてクドクド論じる力とはまた別で、こうした言葉から「想い」をくみ取る、結局は人の「想い」を大切にできる人間が、「文学」の力を受け取ることができる……私らしくもない定番の結論ではあるが、相手が子供だけにそう思ってしまった。
6.「震災」と小説(2)〈ポスト〉震災後文学
(1)同様、3つの作品を抜粋して配布し、グループごとにパネルディスカッション形式で発表。2度目ということもあり、過去に扱った作品と結び付けた議論や、別の情報と比較するなど、最も理想的な形で読解が深まっていった。
なお、〈ポスト〉震災後、という一見不思議な表現は、震災直後の状況とはまた異なる作品群…具体的には、行方不明者への〈喪〉の問題であったり、震災を乗り越えた後に起こる問題であったり、未来へと開かれた作品を扱うことを意識した。
a綾瀬まる『やがて海へと届く』 (講談社、2016)
主人公は、親友「すみれ」を震災によって亡くし(厳密には行方不明)、遺品の整理をしなければならないという設定。奇数章は主人公視点だが、偶数章は過去とも夢ともつかない世界を彷徨う「すみれ」と思しき人物の物語が描かれていく。提示したのは、中盤に主人公が女子高生の二人組に出会って会話を交わす場面と、最後に「すみれ」の死を乗り越えていく二つの場面であった。
・この二人の女子高生の台詞に、議論が集中した。「私たち、(中略)しょっちゅう言われるんですよ。忘れてはいけない、忘れてはいけないって。でも、私たち戦争とか体験してないし、おじいちゃんやおばあちゃんも戦後生まれだし、はっきり言って自分の人生にかすってもいないことを『忘れるな』って言われ続けてるんです」「いつまで忘れなければいいの?悲惨だったってことを忘れなければ、私や誰かにとっていいことがあるの?」忘れてはいけないこと、直接は知らないこと。形だけになってしまった警句や教訓への強烈な皮肉である。
・結局この物語は、女子高生たちが言うように、全てを覚えておくのではなく、楽しかった思い出だけ覚えておく=すみれは自分の中で生きている!というハッピーエンドで終わる。5年が経てば、立ち直れる人も出て来るという意味か。先の『問いのない答え』と併せて考えると、忘却とは一つの健全な作業にも思える。そうでないと、抱え過ぎた荷物を降ろす所はないのだから。
△ラストシーンの後、最後の偶数章を提示したが、ここにも議論が集中。曰く、「すみれ」以外の誰か=被災した犠牲者の集合的無意識であるとか、実は主人公の視点であるとか、魚の比喩が生命の象徴であるとか、多様な意見が出た。が、これは明らかにこちらの悪手。中盤を読むと、明らかに「すみれ」だと分かるような描写が多数。ある意味、読み替えの可能性を考えさせられたが…。
◎同時期、フジテレビのドラマ「監察医 朝顔」が放映されており、「忘れる」ことで乗り越えられるのか、という否定的な見解が出たのは良かった。朝顔は原作とは全然異なる筋書きなようで(Wikipedea情報だが)、焼死体を扱う事件の直前に京アニ事件が起きたりと、人の死や喪への敬虔な態度を最後まで貫いたドラマだった。
b綿矢りさ『大地のゲーム』 (新潮社、2013)
東日本大震災から一世代経った、近未来ディストピア小説。大地震によってキャンパスに閉じ込められた大学生の「私」が暮らす世界には、情報を統制する法律、直ちに届く炭酸酒とハンバーガー、高層ビルの存在しない街並み、など、あまりに「教訓」が生きている(と、私は感じる)。
・主人公の母親は東日本大震災の経験者という設定。母親が、”津波があった分私たちの方が大変だった!”と主張するのに対し、「私」は「いっしょにしないでほしい。どんな昔の体験とも、どんな痛みとも」と愚痴をこぼす場面は、生徒たちの共感を集めた。
・表題にもあるように、「首都一極化」が中心に扱われる。「私たちは、何度でも大地の賭けに乗る/Bet./地球全体に広大な敷地を持ちながらも、大地はあの土地にばかり執拗にコインを積み重ね、賭け金の倍率をつり上げる。」東京という土地にコインを載せ続けるプレイヤーたちは、今もたくさんいる。
→読んだ作品の中で最も読み甲斐があり、批評性のある作品だと感じる。震災後文学の”弱点”ともいうべき、「配慮」や「真摯さ」や「政治性」それらをSFじみた(しかしそれは綿密に計算された未来予想図なのである)舞台設定によって虚構性という軽みを担保しつつ、しかし震災が人間にもたらすものの意味を考えさせられる。
◎文学ならではの創造力。想像力。ただし、読み込む難しさと、肝心のシーン(=大地に根を張る決意を「私」がする)ためには、野外の温泉で男とまぐわうという生=性の場面を削らざるを得ないのは惜しい。(私が作ったプリントでは、「中略…「私」は露天風呂に入り、全身で自然を感じ、自分は「他の動物と変わらない」のだと思い至る。」という苦しい注が入る。)
c天童新太『ムーンナイト・ダイバー』 (文藝春秋、2016)
主人公は、立ち入り禁止区域の海(作中では「光のエリア」)に沈んだ遺品を、非合法に回収し、行方不明者の遺族に渡すという仕事(?)を行っているという設定。物語は、「透子」という未亡人から、夫の婚約指輪を探さないで欲しい、という奇妙な依頼を受けるという筋書きである。生徒には、なぜ「透子」がそのようなお願いをするに至ったかと、指輪を見つけてからの主人公の対応を描く場面を提示した。
→この仮構は非常に切なく、遺品を見つけるということはすなわち、行方不明者の死を確定するという作業である。現実ではこれが行われないというところが、一層むなしい。
→「透子の、夫への想いが、もっと成熟したものであったなら、(中略)かつての夫との暮らしを罪悪感なく思い返せるくらいに、人生への向き合い方にゆとりがあるなら、指輪を返してもよいと思っていた。/あなたも、と、透子の夫に、心のなかで語りかける。/あなたも、彼女の元へ戻ることはあきらめてください。みんな、少しずつ、大切な何かをあきらめているのだから。」以上がラストシーンなのだが…。喪の作業を「未熟」という言葉で片付けるというやり方には、正直同意できなかった(一部フェミ派生徒からも反発あり)。極めつけは、プリントではカットしたが、主人公はホテルの密室で「透子」に明らかに欲情している。提示した意図は、「乗り越える」でも「忘れる」でもない「諦める」というあり方…というつもりだったのだが、作品がそこまで到達していないという印象が残った。
→巻末の作者あとがきはとてもよいのに、雑なジェンダーイクオリティーの作品として読めてしまうのは、非常に残念。
6.5 2学期中間試験 多和田葉子「韋駄天どこまでも」 (『献灯使』より)
多和田作品らしい言葉遊びと、避難所という問題点や分断を正面から扱っており、読ませて良かったと思える作品(本当は「献灯使」なのだが、こちらは政治的過ぎて教室ではかなり難しい)。いわゆる言霊信仰的な言語遊戯や、文章表現が洗練されていて、広義の「読解」によって活路の見える作品。
試験ではラストシーンを出題し、東日本大震災以後の世界をどのように描いているか、それについての自分の考えを200字以内で述べる問題を出題。
→実質的には最後に扱ったということもあり、それなりに反響があった。綿矢りさや多和田葉子は(一括りにはできないものの)やはり中学生に対しても響く筆の力を思い知らされた。
X.総評
・非常に粗削りではあったものの、多くの作品を読み込み、大人も子供も苦しみながら作品を読み抜く、という授業は(私にとっては)とても楽しかった。学会や研究価値、ということにこだわることに疲れたから今の現場があるわけで、そう思うと何とも皮肉なのだが。
・近代、ましてや現代文学は専門でも何でもなく、私自身は古文の研究者だったはずなのだが、読むために学んだ色んな技術を総動員できた。今年は中学生の授業がほとんどでわだかまりもあったが、こういう授業を設定できたこと(職場によっては=師弟制ゼミの学校ならそのまま「探究」にできますよ)は成果といえる。
・昨今のコロナウイルス騒動により、反動として「人文学は必要だ」という議論になるのが恐ろしい。扱った作品群の中には、今回の騒動と重ねて読むことのできるものもたくさんある。有事になってからでは遅く、有事に文化が必要だ!とそのときになって論じることに、はっきり言って何の意味もない。式典はなくなっても、震災から9年、これほどの文学作品が生み出されたこと、それ以上に言うべきことはない。震災当時に声明を出していたり、特集号を組んでいたり、そんな動きはウイルスに対してもあり得るか?(なお、既得権益の強化=大手学会が市民権を得るための文学運動なら、そんなものに価値はない)
以上!
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