【備忘録・前】【中3】震災後文学


今年、自分が担当している学年とは別に、週に1度中学3年生に対し、教科書に縛られず独自に学習を設定できる機会を得た。そこで、兼ねてより自分なりに興味があった「震災後文学」をテーマに、2学期間授業を行った。貴重な経験であったとともに、「文学を学ぶことの意味」というラディカルな疑問(ただちに答えを出すことを善しとはしていないが)に私も生徒も向き合っていた、という実感がある。そのため、どのような作品を扱ったか、ならびに挙がった話題や自分なりに印象に残っていることを記録にしておきたいと思う。文章だったり箇条書きだったりするが、備忘録ということで。

(以下、前置きです)

※・は箇条書き、→は自分の発言や感想、◎は大きな成果だと思うこと、△は課題や心残りを表す。

※作品の選定は、限界研編『東日本大震災後文学論』、木村朗子『震災後文学論』『その後の震災後文学論』に依る所が大きく、扱い方の中には学会ならば剽窃にも当たりかねない切り口のものもある。私自身が研究価値を求めたわけではなく、あくまで「授業」の記録であるということを言い訳にしておく。


※原発や死生観を扱う作品が多く、中には明らかに教室という場に相応しくない作品もある。生徒たちの心理状況の把握や、性的な場面の部分的な削除を施す、また政治的中立性を保つよう自分なりには配慮したつもりだが、最善である保証はない。(事実、興味を持ち全編を読んだ生徒から、性的なシーンについての文句も聞こえた。)一方、これらの情報を「検閲」して送り出されたものは作家に対する裏切りでもあり、震災後文学というジャンルでポリコレを追い求めることは冒涜に等しい。多様な価値観に触れさせ、「教育」というコードを守り、生徒の価値観を否定しないこと、そのバランスの上に成り立った実践であった(=つまり、万能な実践ではない)ことは理解されたし。


1.東日本大震災についてのガイダンス

・年間テーマの提示…

①「東日本大震災」が我々にもたらしたものは何か。

②「文学」は震災に対して、どのような意味を持ち得たか。

→①は文学の震災表象を通して社会の変化を論じる、②は社会の変化や作品の読解から文学そのものの意味について論じる、という意図を持ったテーマ。小レポートの切り口は少しずつ変えたが、12月の最終レポートまで、このテーマは軸として貫き続けた。



・体験者の語り

NHK 東日本大震災アーカイブス ~証言WEBドキュメントより~

南三陸町 阿部成子さんの語り

https://www9.nhk.or.jp/archives/311shogen/detail/#dasID=D0007710136_00000 )

→中学2年生を終える春に被災。クラスメイトたちと崖を走り上がり津波から避難したという証言。

 被災時のおぞましさだけでなく、「大丈夫」と声をかけた人に対する「それは自分の家族が安全って分かってるからでしょ」や、奨学金を受け取るかの葛藤など、「被災者」として生きることの苦しみを真摯に語ったもの。

(+彼女は若いのに話も上手で、「過去」としてきちんと語れるし、過剰に生徒の不安を煽り過ぎない、という点でもこの方の語りを聞かせることにした)

・資料の提示

文部科学省作成「平成23年科学技術白書」の定義を紹介…

この時点で死者15511名、行方不明者7189名。津波災害による「行方不明者」の多さが東日本大震災の特徴であるとともに、福島第一原発事故の公式定義も併せて紹介。

・震災を描いた作品を問いかける

→ほとんど挙がらず。(1名極右漫画家の作品を挙げたが)

 正面から描いた作品よりも身近な作品からという判断により、次回の作品へ。

2.「震災後文学」という読み方

映画 新海誠『君の名は。』 

OPムービー、チャプター18「消えた糸守町」、チャプター25「カタワレドキ」~緊急放送のシーンが終わるまで、チャプター29「君の名は。」

・生徒たちへの問いかけ:「「東日本大震災」と「ティアマト彗星」の共通点」

→彗星落下のシーンの「津波」描写、糸守町が記憶から忘れ去られていること、立ち入り禁止区域と原発事故、避難の放送に鈍感な人々、大切な人を失う、など

・ほとんどのシーンが意図的に演出されるうえ、恋愛ドラマとして(ほとんどの子は)一度見ているものなので、「視点を変えて読む」ということがやり易かった印象。前半はケレン味たっぷりにラブコメシーンを煽り、ラストシーンに到達させる。共通点はたくさん挙がる。

→そこから反転:「彗星と震災を重ねたとき、この映画をどのように読めるか?」…つまり、瀧くんと三葉の感動的なラストシーンは、タイムリープによって「なかったこと」になる。(いわゆる「歴史修正主義」として批判していく読み方)震災のことを忘れて幸せな日常を送る東京の人間と、困難から脱出して運命的な再会を果たして結ばれる二人は、アナロジーである。

→「震災」というコードを重ねることで、作品の読み方が変わってくる。そして、震災後に(実は震災前にも)生み出された作品はこうした読み方を可能にしてしまう。

◎生徒を最後に突き落とすようなやり方だが、その分よく伝わっていたように思う。この作品は震災後文学として全然ダメだと思っていたが、大ヒット作を駄作に読み替えるということに、(我々が思う以上に)効果があったと感じる。


3.「震災」と小説(1)

 3作品をこちらが呈示し、グループごとに観点を決めてパネルディスカッション形式で全員が発表する。

 震災後間もなく発表された作品群を扱うこととした。作品は全てこちらが抜粋する形でプリントを用意。(すべてA3両面程度)

 3作品の議論を終えた後、共通点と相違点をベン図を使って比較させ、小レポートを課した。

a いとうせいこう『想像ラジオ』 (河出書房新社、2013)

 死者が発信するラジオ番組をモチーフに、後に津波で亡くなっていたと分かる「DJアーク」による放送と、現実世界の人々の場面とが交互に描かれた作品。生徒たちには、冒頭の「震災ラジオ」の抜粋と、現実世界のボランティアの若者たちが議論を交わす場面を配布。

△作家「S」の原稿による対話のシーンも捨てがたかった。

・若者たちの議論は、死者の声を想像することの是非をめぐるもの。亡くなった人の想いを想像するべきか。

死ぬ瞬間の恐ろしさなど分からないのに、想像することは冒涜であり、生者のことだけを考えるべきか。作品では、明確に「DJアーク」が語っており、入り口が「想像」であるからこそ、この対立は乗り越えがたい問題として立ちはだかる。

→この「想像」を、死者だけでなく「被災者」にも向けるものとして扱う生徒が少なからずいた。立場の違う者への想像は、ともすれば失礼にあたる。当事者にしか語れないことだってある、という意見である。一方、想像を無くしたら「被災者」とは分断されたままである…教室での議論は、作中の議論のリフレインになることが多かった。

△作品を読み進めていくと、(特にマンションの実況など)死者による「想像ラジオ」が悲痛さを増していく。この議論を扱ったことは後悔していないが、「想像」しないことはそうした「声」を聞こえないものとみなす、くらいまで重さを上げた方が、この作品の提示の仕方としては適切だったかもしれない。


b 長嶋有『問いのない答え』 (文芸春秋社、2013)

 SNSがつなぐ、全国各地の人々の群像劇。被災地の高校生「一二三」と、転入生の「蕗山フキ子」に関する場面を抜粋。フキ子の「悲しいことや辛いこともすべてを覚えていたら人は生きていけない。忘れるというのは人間にとって大事な作用なのだ、とかいう。誰がというのでなしに、大勢が。/そうなのかもしれない。/(中略)でもきっと忘れる。YouTubeがあってよかった。とても速い速度の光の回線の力を借りて我々が毎日検索をするのは、忘れないということに必死なのだ。」や、一二三が「実際、震災を乗り越えたって、父が煙たいことに変わりはない。死ねばよかったとはもちろん思わない。」「何度も音で聞いている「3・11」だ。震災が起こって一年だ。さすがにはっとする」と語ったりと、一様にはとらえられない被災者たちの様子が描かれている。

→この作品はSNSを相当好意的にとらえており、そこを「居場所」だと信じる人達の様子が、生徒たちにも強く印象に残ったようである。

→「被災者」は一括りにできるものではなく、辛い思いをしていない若者にとっては、スマホをいじりながらふと思い出すものにすぎないということもある。線引きやカテゴライズそのものの有効性についても改めて問い直す作品であった。

△群像劇ということもあり、多様性を削らざるを得ないので、このスタイルの授業で扱うには難しかった。実はこの作品は凶悪殺人犯の何気ない「つぶやき」についての扱いの方に主眼があり、分析しがいがある(論文とかある?)。


c 重松清『希望の地図』 (幻冬舎、2012)

 中学受験を失敗した男の子が、被災地を回る旅に出て、その体験を機に更生する話。授業では男の子を連れだしたライターの手紙(終章)を配布。小説でありながら、インタビューに登場する人物(水産会社の社長や、役場の人間など)は全て実在の人物であり、いわゆるドキュメントノベルというジャンルである。

…が、(重松清らしくもあるし、取材には頭が下がるが)被災からの復興が少年の成長に結びつく、という筋書き自体への抵抗感が強かった。内容が一番分かりやすいのと、作家の知名度も高いので採用。

→導入として使えるような作品。道徳の教科書に載る可能性さえ感じさせる。

→生徒たちが目を付けたシーンは、ラストに出てくる「成人式」について。世の中で報道されているような、友人の遺影と共に「被災地の成人式」が行われているが、これはごく一部に過ぎないという。ライターが見た成人式は、ヤジが飛び交い、黙祷中に笑い声が上がるようなものであった。このことについて、「「被災地の新成人」「涙と希望の成人式」という、最初からできあがった枠にはめようとするマスメディアの欺瞞」への反発だったのではないかと述べていた。枠にはめる、ということの是非については、議論する価値のあるテーマであった。(なら主人公はアッサリ不登校から復帰しない方がいいと僕は思うんですけどね)



3.5 1学期中間考査

池澤夏樹『双頭の船』  (新潮社、2013)

 被災地を回る船が、色々な人を乗せていくにつれどんどん拡張していき、ついには被災地に接岸して一つのコミュニティーを作る。それに伴い派閥が生まれ、これまで通り過ごすのがよいとする「沿岸派」と、被災地を離れて世界を回る「独立派」に船内は二分される。住民投票の場面(なんと、投票結果は賛否ではなく思い思いの言葉が綴られた)を出題。

→テストにつき、いくつかの小問と、200字記述を課す。「独立派」と「沿岸派」はそれぞれ現実においてはどのような人々に重ねられるか、またこの作品は東日本大震災をどのようなものとして描いているか、自分の考えを述べよというもの。(難しかった、というか時間がなかったですね)

→大和田俊之の解説が素晴らしい(もはや、作品よりも良い)ので、解説時に配布。冒険に〈出る〉のではなく、もとの場所に〈帰還〉すること、陸地の重要性について述べたもの。



4.「震災」と批評

 4つの批評文・評論文を読み比べ、否定的または肯定的にいずれかの文章の内容を引用し、自分の考えをスピーチにして発表する。作品は全てこちらが用意したプリント(A3片面程度)に抜粋されたもの。グループワークでまず1つの文章を担当し、要点を他の3人に説明する、という形で4つの文章を素早く読む訓練も併せて行う。


a 荻上チキ『検証 東日本大震災の流言・デマ』 (光文社新書、2011)

 東日本大震災時に流れた「ヨードと放射能」や「子供の餓死」、あるいは知識人までもが「関東から家族を逃がせ」といった流言に踊らされたことを客観的に分析したもの。奇しくも今回のコロナ騒動では、トイレットペーパーによって再びSNSによるデマ騒動が沸き起こった。

 資料としてとても価値のある本で、間違った情報そのものが凶器になり得る、という観点の箇所を提示。

→震災当時はまだインターネットとは無縁だった生徒たちにとって、なかなか興味深い内容だった様子。先の『問いのない答え』の逆で、SNSがもたらす弊害を端的に述べていたのが良かったよう。

◎噂話に尾びれがついて、「拡散」していくこと自体の危険性を訴えており、SNSリテラシー教材として一定の効果もあった。


加藤典洋『3.11 死に神に突き飛ばされる』 (岩波書店、2011)

 表題の「死に神に突き飛ばされる ――フクシマ・ダイイチと私」を提示。筆者は著名な論者で、良い意味で昭和的知識人の観点から綴られた、半分エッセイのような文章(ご冥福をお祈りします)。

→子供たちや若い世代を、原発事故という事態に追い込んだことへの自責の念も包み隠さず語る。日本はこれまで欧米諸国に「追いつけ追い越せ」の精神で発展してきたが、氏は「追いついたら、追い越さない」というような脱し方を提案している。このあたりにはそれなりに生徒も食いついていた。文章に凄味はあるが、一方でその発想自体が時代にそぐわないという雰囲気。

→専門家のやり方をチェックするためには、「アマチュアの関心、非正規の思考態度」、すなわち「すべて自分の頭で考える」ことが重要というが、ここは私も含めてふーん、という感じ。「専門知」との関わり方が、思えば大きく変わってしまった。研究の細分化の弊害を感じる。


金菱清『震災学入門 ――死生観からの社会構想』 (ちくま新書、2016)

 1章「科学vs人間 ――寺田虎彦は正しいのか」を提示。震災後、「海を離れるか」という問題について、住民と行政との意識の乖離を指摘している。巨大な防潮堤を築くが、行政は住民の提案を一部加味して、コンクリートに「小窓」をつけるというシュールな写真が紹介される。行政区画に人間が描かれないこと、科学的見地、実際の住民感情、行政の判断の両立の困難性を指摘している。

→4つの中で最も「モノ申したい」生徒が多かった印象。政治の悪口を言うにはもってこいで、逆に「ならどうすればいいのか」というカウンターに乏しい。人間観を重視するという立場は、場合によっては次の災害に行政が全く機能しないという恐れもあり、一方の論理からとやかく云えるものではない、ということを思わず言い添えてしまったクラスも。

△中途半端に提示したせいで、氏の主張を断片的に読ませることになってしまった。


開沼博『はじめての福島学』 (イースト・プレス、2015)

 分厚い1冊。巻末の「福島についてのデータ集」は導入としても使いやすい。氏は、福島で起きている問題を「専門化(ごめんなさい、別の名前だったかも)」「福島問題のステレオタイプ&スティグマ化」「福島問題の政治化」という3分類に整理するが、このうち2つ目について説明した箇所を提示。

→「ステレオタイプ」(固定観念)と「スティグマ」(負の烙印)という重要語の観念も分かりやすく、「避難」「賠償」「除染」「原発」「放射線」「子どもたち」の6点セットの再生産、また福島について語ることが、誰かを傷つけてしまうという問題の整理の仕方は見事。そこに「Googleサジェスト」の具体例を持ってくることで、生徒たちにもかなり理解しやすかった。

→1つ目はともかく、3つ目の「政治化」…つまり、福島について語ることが、政治について語ることと重なってしまうこと、は(配るとまずそうなので)口頭で補っておいた。震災について思い出すこと、語ることそのものの問題点。慣れてきて忌憚なく語るようになった生徒たちには、読ませるべき作品であったと思う。

△言葉がカタカナ語でかっこいいということもあってか、最終レポートに引用する生徒が多かった。私たちは、ステレオタイプで震災をとらえる…でも文学作品ではこうだ…という論調に合致しやすかったためか。最初に提示したテーマを貫きながらも、社会についての分析はこの4作品に依存してしまったため、授業全体としての反省点にもなっている。(「テーマ②:「文学」は震災に対して、どのような意味を持ち得たか。」を論じるにあたり、社会への影響を観測する手段があまりにもなさすぎる。良いレポートでも、最後の論拠は結局「私たちのように」となってしまう)


4.5 1学期期末考査

小松理虔『新復興論』 (株式会社ゲンロン、2018)

福島の食品の風評被害について扱った箇所を、定期試験の問題として出題。筆者は放射線汚染による被害を乗り越え、特産品を売り出して地域を活性化するために、多様な活動を行う。執筆時はかまぼこメーカーに勤務しており、文章中では「福島県産の食品を「避ける」ことは「差別」か」と問いかけている。筆者の問題意識を整理し、その問題にどのように向き合うべきか、自分の考えを200字で述べる問題を出題。

→筆者は、商品を選ぶ権利や安全を求める志向を否定せず、問題は「中庸がなくなり」「容易に二元論化していく」エスカレートした議論にあると指摘したうえで、「極端な意見やデマだけが残ってしまう状態を「風評の固定化」や「記憶の風化」と呼ぶのではないか」と訴える。中庸が抜け落ちた二項対立化…ミメーシス的対立の構図は、この例に限らず近年のあらゆる議論によくみられる傾向であろう。

→生徒たちはしばしば「評論家」を口ばかりの人間として軽蔑するが、近年の若い論者は自身も相応のバックボーンを持っていたり、具体的な活動を行っていたりするケースが多い。狭義の研究者や批評家の文章よりも、彼らは文章そのものではないところに「説得力」を感じるのだと考えさせられた。


(後半に続く)





Snobbism

主に読んだものや見たものや考えたことについて書きます。

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