七部があるから六部はあるし、一部はある
日本アカデミー賞、春のセンバツ。美しい。感動。涙。
あれ、緊急事態なのですよね?と思うばかりの華々しい話題は、結局昨春以降尽きることがなかった。
中止にせよ、というような野暮ったいことを言っているのではない。
いま、東京の公立高校ではようやく部活動が再開されようとしている。それまで(緊急事態宣言中)は、部活は一律禁止であった。
海外の事例を見れば、学校というものがどれほどの危険地帯(あらゆる意味で)で行われていたかがよくわかるだろう。私は6月以降、テレワークゼロだったし、それは同業者の中では結構当たり前だ。いま若者で、親もさほど高齢でなくて、本当に良かった、と思う。
私立は二択が迫られていて、万一クラスターと報じられたならば翌年の募集にかかわるが、一方で全国大会の実績は残さなければならない。教育と経営は相性が悪い。このあたりは統計が欲しい。
さて何が言いたいかというと、”一律禁止”の春だったはずなのに、なぜだか甲子園で白球を追っている高校生がキラキラしている、ということに、おぞましさを感じるのだ。
理屈は分かる。結局、プロを目指して全国トップレベルでやれる人なんか、一握りなのだから。”選ばれし人”だけにテレビカメラは周り、人と札束は集まり、そうやって社会はできている。そのことに反感を覚えるほど幼くはない。
しかし、本来はそれはピラミッドの頂点だったはずなのだ。日本最高の役者を一人決めるためには、日本最低辺の役者が千人は必要だったはずなのだ。
いいさ。いいさ。どうせスポーツで食っていくわけではないもの。どうせ手に職は得ているし、バイトで食いつないでいくことはできるもの。
ただ、無数の散っていく夢の上にあってはじめて夢は美しいものとなるはずなのに、その基層なくしても意外と頂点の美しさは保たれていることが、おぞましいのである。
(春休みくらいは書き物をしよう)
0コメント