新海誠『天気の子』――無責任であるという責務
「資本主義の内部世界は、広々とした空の下にある広場あるいは産業見本市ではない。それはむしろ、もともと外部にあったあらゆるものを内部に引き入れた温室である」――スローターダイクを引用し、ジジェクは言う。「資本主義のグローバルな拡大の基盤にあるのは、(中略)グローバル資本主義の球体のなかにいてそれに守られたひとたちと、その覆いの外にいるひとたちとを分かつ階級分割なのである」…。(『絶望する勇気』)
カップヌードル、バイトル、RADWIMPS、サントリー、ソフトバンク、新海誠。
前作『君の名は。』は国内興行収入歴代2位ということが話題だが(1位は宮崎)、世界では歴代1位である。世界的に売れるものに企業は目をつける。いまごろ、どこかの国のアニメファンは、「カップヌードルを2分で食べなくては!」と鼻息を荒くしていることだろう。
青臭く「一生に一度のワープを 君に使うよ ヘーイナーウ」とか好きだった世代としては、単純にそのことにただただ違和感があって、そういうフィルターで見ているのはご愛敬。
この作品が「面白い」のかどうかが全然分からず(というのも、「君の名は。」は僕は「面白くない」と思ったため)、色々調べてみたけれど、結局数字なんだな、という感じ。まともに切り込んでいたのは、これかなーというものを一つ。
これは批判ではなく、違和感なのだが。
この作品は「ポストヒューマン」でも何でもないということが一つ。強いてポケモン風に謂うなら、「ゲンシカイキ」であって、ポスト、ではない。(「ヒューマニティー」を超えるのではなく回帰していくだけだから。)そして、新海が「賛否両論」と分かってて仕掛けた、青年の選択に、意味を見出しているということがもう一つ。
世界を救わない代わりに、好きな女を選ぶ。そう書いてしまえば、「トロッコ問題」でしかない。そう、この物語の「選択」など、陳腐で手垢にまみれたもので、「仕事か私か、どちらか大事なの?」とか、「〇〇味のカレーか以下略」とか、そんな小学校の卒業文集レベルの話に過ぎない問題に思えてくる。
こんな選択に意味は、ありますか?
さて。友人たちの感想を見てみます。
「大人」「子供」。前述のように定義していくならば、「トロッコでそのまま5人をひき殺す」という選択をするのが「子供」で、「スイッチを切り替えて1人を殺す」のが「大人」ということになる。言い得て妙というか、更に映画内ではその「1人」に全く気付かない。ほぼ全ての「大人」たちが(「子供」をも巻き込んで)、「5人の命が助かった」という事実に諸手を挙げる。そもそも解決不可能な問いに、「大人」たちは解決した気になる。でも。「子供」たちは違うのだ。運命のままに、5人が死ぬことを、切に願うのだ。
だから、「賛」も「否」も、あるわけがない。だって、そうでしょう?トロッコは、動くのだから。それが、「自然」の摂理なのだから。
『君の名は。』を引き合いに出してみよう。『君の名は。』は、「大人」たちが自分の責任を取らずに(三葉の父は同じ運命を反復している)、「子供」たちに運命を託すことになる。そうして、彗星が襲ったという紛れもない事実を、「なかったこと」にするわけだ。
尤も、「大人」たちが自分たちの「物語」を「子供」たちに託すことなど、珍しい話ではない。エヴァンゲリオンもドラゴンクエストも、そんなもんだ。アニーのオーディションを受けさせる母親も。
しかし、『君の名は。』が露悪的だったのは——、東日本大震災を髣髴とさせるモチーフで起きた天災を、本当に「なかったこと」にするというその筋書きであった。立ち入り禁止区域を記憶にも留めない瀧くんの様子は、東京の無関心人間と、何が違ったのだろう。
(なお、東京の海浜地帯の浸水というモチーフは、東北にとっての津波と同様に、古代との繋がり、地理上の「脅威」(鹿児島の桜島のような)としては最も”現実的”であり、来るべき災害を終えた東京と見做すこともできそうだ)
では、『天気の子』はどうだろう。
世界を変えてしまった、という責任を抱え込む「子供」たち。
たいてい世界は何とかなる、と言い放ち、そして実際に何とかしてしまう「大人」たち。
最後に「子供」たちは言うのだ、「僕たちは、きっと、大丈夫だ」と。
この映画は、見事に果たしているのだ。世界のあらゆることは、仕方がない。無責任であるという、責務を。「大人」たちが「責任世代」だと揶揄される時代は終わった。だって、その「責任」は、当然ながら「子供」に降ってくるのだから。いいさ、3年とか5年くらいなら、水上バスで暮らしてやる。一通り人生を謳歌したなら、故郷を捨ててマンションで暮らしてやる。
けれども、君ら(僕ら)がそういう「責務」を果たしてくれるから、「責任」はいつかの誰かに、降りかかってくるのだろう?
設定画集とか読めばいいのだろうけど、ヒロイン・陽菜の頸に巻かれた雫のペンダントは、母の形見でしょう。(病院のシーンでは母親が身に着けていた)だとすれば、母親にも実は、世界と引き換えに死ぬ運命が用意されていたのかもしれない。でも彼女は、「責任」を娘に譲った形になる(15歳とか16歳とか18歳とかについては、単純に処女性が問題になるようにしか読めなかったので、ご愛敬。空に迎えに行くシーンは、神の女を寝取ったわけ)
そういう「いつかの誰か」をただただ捨象して、そうして「大人」になっていくのだ。
そんなグロテスクな現実をありのままに(いやむしろ耽美的に描写して)示すことに、パフォーマンス的な価値はあっても、何というか、何なの?と感じた映画でした。
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