「少年の日の思い出」をめぐるnつの非生産的な断章(1/n)
○冒頭部。明暗の対比。「私」と「客」。
「私」は子供ができてからというもの、幼年時代の楽しみを思い出し、ちょう集めをやっている。
「明るいランプの光」を受けて、光り輝く蝶。=「私」にとってはまさに恍惚。
「客」はそれに対し、「情熱的な収集家」であった過去について、「不愉快」な感情を表にしている。
※「子供ができてから、自分の幼年時代のいろいろな習慣や楽しみ事が、またよみがえってきた」ということはありえるのだろうか。
何というか、最近のポケモンが狙っていることに近いようにも思うが。
○「ちょう集め」=少年性。根源的な欲望としての収集欲。所有欲。
※2歳の甥っ子が、自分の実家で遊んでいるとき、一度手を触れたものを「自分のものだ」と主張してきた。
所有は本能的な欲望。エディプス的視点、あるいはジラールを思うと、欲望とは所有のことなのかもしれない。
食欲、色欲、出世欲。何かを「所有すること」への欲望。逆に、睡眠欲とかタナトスとかは、「所有」からの逃避?
村上春樹が「女のいない男たち」に、「何かを得るために酒を飲む人間と、失う為に酒を飲む人間がいる」的なことを書いていたような。
○語り始める「客」。巻きたばこを求める=少年性との決別。語る主体、かつての「僕」と現在とのつながりは、“けむりに巻かれる”
ここでも「求める」。
※なぜ語るときには巻きたばこが必要か。このあたり、まずはこのたばこがどういうものなのか、当時の文化的背景をよく調べなくてはならない。
あるいは、客人が主人にたばこを求めることが慣習だとしたら、大した問題にもならないのかもしれない。一応関係性は「友人」とある。
○また、「話すのも恥ずかしい」と言いながら語る。
なぜ語るのか?――当然、「贖罪」とか「懺悔」のような動機はあるにしても、冒頭を軽視した道徳的解釈にも思えてくる。
※語ることの倫理などこの作品では問われていない。問わないからこそ罪がおき、ちぐはぐな再構成が行われる
むしろ、語りたいものには声を発する権利がある。「One Of Them になりさがるな」
○ランプにかさをかけると、「私たちの顔は、快い薄暗がりの中に沈んだ」。また、「彼の姿は、外の闇からほとんど見分けがつかなかった。」(葉巻の火は光るのでは?)
顔が闇に溶ける=主体の削除。闇の中から語りは響いてくる。
「私」/「客」の差があいまいに思えるが、ここでは「私」の視点であるとしかいえない。「客」は自己の存在を抹消したとしても、「私」とは混ざらない。
※昔、スーパーマリオ64で、「やみにとけるどうくつ」があったが、あれは何が「とけ」ていたのだろう?
対して暗いステージでもなかったような。「かくれスーパーカベキック」の名前が剽軽すぎる。
○「客」=「僕」に、語る必然性は与えられない。あるいはこの後、〈世界のおきて〉の代表たる「エーミール」と対峙し、ことごとく〈おきて〉への敗北を味わうだけの体験に、必然性などないのかもしれない。たとえばこの物語に続きがあったとしたら(雑な教育実習生の発問のよう)、「私」はどんな言葉をかけたのだろう。
自分の罪と罰を描き、「けがしてしまった」思い出を語ることに、何の意味があるというのだろう?
語りのバイアスをかけすぎると、語りは無意味性を増していく?
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