(黒歴史再掲)朝井リョウ『何者』感想――言葉と物と、時々ワタシ

(この文章は2016年10月18日に書かれました)


就職活動、略して就活。高校時代の同級生が、時代の荒波に飛び込んでいく。二年前は、ESとか自己分析とか、耳慣れない言葉がSNSを飛び交っていたが、なんだかんだでそれなりに就職し、今や立派な「大人」だ。

大人になれなかった大学院生も、社会への片道切符を遂に受け取り、そのような折に話題作を読むことにした。

物語に登場するのは、幾人かの大学生。語り手・拓人は、周囲を分析することが得意で、まさに語り手に相応しい。Twitter上を飛び交う言葉と、実際に顔を合わせて交わす言葉。更にここには、実際によくあるようにinstagramも引用されており、#の後ろには短いフレーズが繰り返される。

映画の宣伝の都合上、アオリ文は「オチ」をこの小説の価値として全面に打ち出しているように思う。が、そこは正直、問題にならないし、そこに救済などなく、結局社会が我々を待ち受けているというだけのこと。続編もあるらしいから、その点はそちらを読んで考えたい。

むしろ、まさしく同世代(大学に入った時から、携帯電話が大きくなってしまった)であるからこそ、私たちをめぐる言葉の環境について、考えさせられる作品だと感じた。二点、プロットを明かさない程度に、人物の言葉を引用したい。

 り、と打ち込んだだけで、了解、という文字が予測変換されて出てきた。

 こんなふうに、短い言葉を使って俺たちは日々を過ごしている。そんな日々を過ごしている。そんな日々を記録して発信していくために、最低限の言葉で自分を表現するために、捨てた言葉と拾った言葉たちがある。

(67~68頁)

「お前、こんなことも言ってたよな」

 返事ができないでいると、サワ先輩の声が少し、小さくなった。

「ツイッターやフェイスブックが流行って、みんな、短い言葉で自己紹介をしたり、人と会話をするようになったって。だからこそ、その中でどんな言葉が選ばれているかが大切な気がするって」

 サワ先輩は、ツイッターもフェイスブックも利用していない。

「俺、それは違うと思うんだ」

 サワ先輩は、用があるならメールじゃなくて電話して、と、いつも俺に言ってくる。

「だって、短く簡潔に自分を表現しなくちゃいけなくなったんだったら、そこに選ばれなかった言葉のほうが、圧倒的に多いわけだろ」

 サワ先輩は、この現実の中にしかいない。

「だから、選ばれなかった言葉のほうがきっと、よっぽどその人のことを表してるんだと思う」

(203~204頁)

自分の思いや考えを言葉にするとき、それはしばしば一致しないものだ。逆にいえば、言葉に出して初めて、内面を発見したともいえるし、言葉にならない内面などなかったともいえる。「俺たちは頑張った」と口にするとき、それまでの得も言われぬ経験は、ある意味では安っぽくなる。「私は辛い」とTwitterに書けば、紙で切った指先から血が滴るのを見て初めて痛みを覚えるように、自分は辛い立場に置かれている気がしてくる。多種多様な捉え方がなされてきた、言語哲学の課題の一つであろう。

そこに、言葉を著すツールの問題を加えてみよう。話した言葉を神聖視していては笑われるが、やはり誰かと話す、ということは一次的な方法であるようにも思える(たとえ、声が我々から奪われていたとしても)。

では、書く言葉はどうだろう?

『何者』が鋭く描いているのは、そこだ。「り」は「了解」とは違う。語り手・拓人は、その違和感を、鋭敏に言語化する。スマホを使って言葉を発し、他人との交流を図っている今の我々は、何かどんどん難しくなっている。

そこにあるのは〈選択〉であるはずだった。他人に対して合意をするとき、「了解」「承知」「かしこまりました」「(^^)」など、様々な言葉があり、意味は合意であっても、そこに気持ちを載せることは可能だ。

予測変換という、利便性を突き詰めた入力方法と、大規模なSNS。二つの世界が出会ったのが、まさにスマホであった。このとき、〈選択〉は果たしてどれだけ可能か。いつからか、SNSもどこか定型化された表現に支配され、型の中でしか言葉が綴れなくなったという気持ちを、持ってはいないだろうか。

既にその空間では、誰かがその言葉を発しているという事実が、ありありと突きつけられるから。スライドする指は、あらゆる方面から、縛られている。

サワ先輩の言葉は、そこに新たな光を差し込む。

〈選択〉という方法は、何かを選ぶことではなく、何かを捨てることなのだ。だから、そこに沈んでいった数々の言葉こそが、その人の気持ちとか、固有性とか、価値とか、そういったものを表しているのではないかと。

それは、書き手の意識にかかわらず、捨てられてきた言葉の死骸の山なのかもしれない。しかし、時代錯誤にも現実に生きるサワ先輩こそ、その死骸の山の重要性を知っている。

ボキャ貧、という言葉がある。果たして、このまま「書く」ことが進み続けたら、どうなるだろうか。

〈選択〉されたように見える言葉の種類は、どんどん少なくなる。そして、〈選択〉されなかった死骸の山は、今もすでにその標高を低くし始めている。極めてアナログな世界に生きるサワ先輩は、そのことに気付いているのだろうか?

我々自身だけではなく、出会うべき未来の他者(=本格的にスマホ綴り、あるいはそれを越える支配的な表現方法を得た若者たち)への、何か重要なヒントが隠されている気がしたので、取り上げた。

『何者』は、物をいうための言葉、言葉が表す物。そんな当たり前の対立軸に対し、現代のワタシが、捨てている言葉とは?

断捨離、が少し前に流行ったが、捨てるものがなくなることが、一番怖いのである。現在綴られている言葉の数々は、死屍累々の上に成り立ちながらも、その死骸なくては何も表現しえないという背反がある。

そして、捨てられなくなったとき、自らを捨てるしかないのだ(先日の「世にも奇妙な物語」参照)。

(文庫版、新潮社、590円(税別))

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