令和6年度共通テスト国語 雑感(総評・現代文)
総評
息子の寝かしつけや缶チューハイ(自分の問題では?)に何度か中断を挟まれ、それでも合計80分で181点。一つ見落としの凡ミスがあったものの、オジサンの処理速度ではこれくらいが限界か。
特に現代文は、この2年続けて確立してきた「共通テスト」らしさを捨て、センター試験に回帰的な傾向のある問題。評論文は久しぶりに「二項対立」批判からの新たな知見、というポストモダン(っぽい)批判的検討を含むもの。小説はずいぶんと最近の書き手だが、書いてない心情の想像や感情移入を我慢していくという基本戦略を徹底すればよい。漢字の出し方や語句問題の復活も然り。一部の問いに疑問はあるものの、”出題者の意図”を全開に押し付け、推論を強要してくるようなここ数年の出題に比べ、読解力と知性と思考力を以て文章を読むという、大学受験国語に相応しい出題に戻ってきてくれた、という印象。
漢文が複数資料型ではあったが、他の三つは中心文が一本据えられているので、資料が後にくっつくことが分かっている受験生たちにはそれほど意外性もなく、時間もうまく配分できたのではないか。というわけで、過去2年よりは明らかに易化で、例年のセンター試験並みであったでしょう。
共通テスト利用型によっては現代文のみでも200点集計されてしまうので、全国平均は113点くらいかな。難関国公立狙いの生徒はきちんと9割キープできる内容に思えた。
大問一 渡辺裕『サウンドとメディアの文化資源学――境界線上の音楽』
受験国語らしい、いい評論文。何かの仕事で著者のオーケストラ評論を読んだことがあるが、そちらも面白かった。人によってはやや疎遠な「音楽」「芸術」をテーマとしたもの。前半は二項対立構造の紹介とその批判、コンテクスト、メディア、自明化の批判、何なら最後のところは丸山眞男「『である』ことと『する』こと」を明らかにもじった表現であり、「現代文」という教科を小手先の技術にとどめず、本来的な学びを積んできた受験生が安心して読むことのできる文章であった。
平成20年代のセンター試験までは追試を筆頭にやや理不尽で読みづらいものもあったが、30年代から共通テストになってからは翻って評論らしい深みを欠く出題(※出題範囲が悪いのであって、筆者は悪くない。序論や断章取義が多すぎ)が続いていた。うまくその良いところどりの出題文だった。【文章Ⅰ】【文章Ⅱ】方式でない方が、いろんな意味でいいでしょう?(「よだか」の読み比べはやはり疑問しかなかった)
問1:従来式。こっちで問題ありません。ウ「モヨオす」エ「アクヘイ」は前日の授業で書かせたのでちょっと驚きだが、選択肢が簡単すぎてねえ。いっそ五択に戻しては。オ「紛糾」「粉飾」は引っかかるかも。
問2:間違え問題その1。典礼か音楽かを切り離した選択肢を真っ先に切ったが、⑤の改行にまんまとやられた。よく読めば明らかにこれが答え。①の「楽曲本来のあり方」と④「参列する人が増えた」がどっちも違うな…と思っていたところだった。
問3:簡単。本文の論じ方が主語不在(鑑賞者か、展示者かが微妙)なところがあったが、②「生活」への限定、③「地域全体」、⑤「都市が出現してきた」ですぐ切れるので、あとは①「現実の空間まで」か、④「コンテクスト全体が…主題化」で比べればよい。作品そのものの鑑賞が前提。
問4:間違え問題その2。こっちは言い訳なし。④⑤紛らわしく、⑤を生かしたまま④にしてしまった。傍線前後の指示語「そうであるならば」「このような状況自体」が分かりにくい。筆者はあくまで「自明化する議論」を問題視しているに過ぎないと読めば⑤一択か。④の後半は本文にはあるけど、この傍線の理由として不適ですね。前半も本文の指示語をちゃんと読むと違う。焦ると④を選んじゃうのでは。
問5:簡単。事例を変えただけで、問題は別に転換してないね。読みながら意味段落の推移も分かりやすい文章。
問6:と、ここまでかなり硬派な現代文らしい問題が続いたが、これは問題作。はっきり言ってクソ中のクソ。(ただし、受験生泣かせではないし、難しくもないから、担任としてはまあ許せるが。)
本文を読んだ生徒のレポートを推敲するという切り口だが、なんとこのレポートの冒頭は「本文では~と主張されていた。しかし、ここでは~自分自身の経験を基に考えてみたい」という衝撃の書き出し。国語の授業のレポートなのに、本文を無視して自分の体験だけを押し付け、筆者との意見の違いも述べず、具体性も全くなく、ただどっちつかずの抽象論を述べた中学生以下のレポート。本文の読解を一切問わず、このクオリティの駄文を読解させることに、何の意味があるのでしょうか。
(ⅰ)は2行で瞬殺。(ⅱ)は「それ」が何を指すかだけ。(ⅲ)でもう一度本文に戻る、という受験国語の鉄則を踏むのだろう…と思ったら、結局Sさんの駄文をまとめろというだけの問い文。①作品を鑑賞するか、④現実を鑑賞するか、ではなくどちらも重視した②の相互性が答え、というだけ。解いてみると、筆者の「二項関係を超える」がモチーフなのはギリギリ分かるが、本文の論点がどこにあるかを1mmも理解していないレポートができあがりますよ、と。
「よだか」の年のように、「本文を捻じ曲げて解釈する」のは許せないが、ならばいっそ本文を読まないというすがすがしさ。じゃあこの形式やめればよいのに。
大問二 牧田真由子「桟橋」
何とも新しい文章。単著を一冊も出していない作家が出題されるのは初めてのこと…らしい?〈自己〉が〈他者〉や環境のあり方と関わるという現代文的な知識があれば、「おば」の自分のなさというのは簡単に了承できる。心情表現に直接的なものがほとんどなく、言動や行動から心情を読んでいくことを基本戦略に置く必要がある。設定もさほど特殊というものではなく、時代も現代なので受験生にとっては読みやすい部類の小説といえる。
問1:難問。。ア「うらぶれた」ウ「やにわに」を元々知っていたらかなりの読書家なのでは。アは文脈もあまり無いので難しい。ウは文脈上「即座」か「強硬」かの二択なので統計は収束するか。
問2:簡単。「世界が崩れなかった」の言い換えが含まれたものが少なすぎる。
問3:心情が直接書かれていないので、よくある「読みすぎ」で引っ掛ける問題。きちんと演習を積めていれば大丈夫そう。①「口止め」③「親密」⑤「うっかり話してしまうことを懸念して」はすぐ外せるので、打ち明けた理由を②「罪悪感」っぽく読まないようにすればよいだけ。
問4:良い問題。行動に現れた心情を推論していく。33行目「動きが止まる」→驚き、37行目「狼狽を引きずったまま再び手を動かし始める」→狼狽=うろたえが残ったまま 47行目「手をとめない。上手くとめられなかったのだ」→無意識の行動のあらわれ、不安(・嫉妬?)と、まずはそれぞれの動作から読み取れる心情を考えておく。と思いきや、イチナの心の動きの原因を読む問題だった。
Xでは「近親相姦」「百合」「NTR」などという言葉が流れていたが、ホモセクシャルではなくホモソーシャル的な、というより大問1の言葉を借りれば〈聖域〉と思っていたものが崩れたという話でしょう。
よって妄想が加速した人は①「自分とおばとの関係に他人が割り込んでくる」を選びたくなる、と。60行目に「友人の言う通りなのかもしれない」「たしかにおばには、…」があり、このときの会話を再咀嚼しているところが決め手。結局説明しすぎていないものが答えという、センター試験あるあるの問題でした。
問5:簡単。何と迷う問題なのでしょう。受験生への思いやり問題?
問6:これも簡単。段落の最初に「夕暮れの公園」ってあって、影が伸びていく、とあれば時間の経過しかありえないでしょう。公園で遊んだことのないZ世代を懲らしめたいのだろうか。
問7:先にも述べた〈自己〉のあり方について、太田省吾の文章を踏まえながら、生徒の会話を埋めていく問題。大問一とは違い、こちらは資料複合型にした意味は十分にある。(ⅰ)はYから考えると悩ましいが、そもそも問い文にある「私の肉体は家だから。」=確固たる自分がない(70行目の「空をよぎる鳥と鳥影」の比喩もヒント)の意味が分かれば、Xが④「どこからどこまでがおばがよくわからない」しか当てはまらず、Yで追認する形。資料がオマケで、本文を読ませる問題。こういう風に作るべき。(ⅱ)も資料とは異なる、本文が持っている〈自己〉像のあり方を答えるわけで、逆に太田省吾に申し訳なくなっちゃうね。変に欲望に寄せた選択肢も多く、時間さえあれば間違えようがない。
総じて、大問2は旧来のセンター型の対策と共通テスト形式の本文理解がきちんとできていれば、ほぼ満点近く取れる内容になっている。大問一のクソ問題をクソと見破り、こっちを丁寧に解くのが正解だったような現代文パートでした。
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