新海誠「すずめの戸締まり」雑記



〇名匠・新海誠

「君の名は。」の大ヒットに続き、「天気の子」「すずめの戸締まり」と連続して発表された作品群。過去作にも連なるモノローグや風景描写、セカイ系(元・童貞系)恋愛物語の武器をうまく活かし、日本だけでなくアジアを中心に世界的なヒットを飛ばしている。

「すずめの戸締まり」はその系譜にして、史上最も薄味な物語である。日本観光ツアーとスポンサー商品と派手な爆発シーンを詰め込めるだけ詰め込み、日本伝統風味の必然性をほんのりと加えておいて、あとは世界の命運と愛を天秤にかけさせる。

胸を揉むのもラブホテルもやめておいて、入浴シーンは背中1秒。

自分が何故売れたのかをよく分析したがゆえの、紛うことなき名作である。(あとはキャラ愛を足せば、劇場版「名探偵コナン」の域に達することができる。)

映画は芸術ではなく自己表現とエンターテインメントなのだ!というのは否定できるものではない。日本よりも海外で更に人気が出る作品であり、細かいことは置いておいて、美しい日本の景色に感動する人は絶えないことだろう。思考停止して笑えて泣けるのがエンターテインメントだとすれば、すべての狙いが成功している。

○表象の顕現

一連の作品群は、常に東日本大震災という喪失の体験が表象としてあらわれていた。「君の名は。」の彗星落下や「天気の子」の首都水没は、原発事故や津波災害のイメージを借りて描かれていた。

自分自身、震災後文学というジャンルを意識して研究しており、勤務校の授業で「君の名は。」を扱ったこともある。大抵の子供は、「震災の視点で見ると、たくさんの類似点が見つかった」といった反応だった。

しかし本作は表象ですらない、もっと下品なやり方で震災を描いている。繰り返される緊急地震速報、大地のうなり、コンクリートの軋み。”あの日”のことを否が応でも想起させる作りになっている。

「すずめの戸締まり」は、東日本大震災そのものと対峙する物語である。主人公は震災遺児であり、過去の被災地を巡礼しながら、母を失った東北へと帰還する。震災の復興や忘却を主題化し、あまりにもあの日を思い起こさせる描写が多く、開演前に注意喚起をするほどの〈震災モノ〉と高らかに宣言している。(商業エンターテインメントとしての〈震災モノ〉の道徳的是非は責めても仕方ないが、海外の目にはどう映るのかは、非常に気になるところ。)

ところで、〈震災〉とは何か?

○国家としての〈震災〉

危機としてたびたび現れる「ミミズ」は、常に地震を引き起こす。日本各地で、人の心が薄れたところ(!!)でミミズが漏れ出し、過去にも〈震災〉が起こってきた。

しかし、東日本大震災の被害がなぜ甚大だったかといえば、津波災害、原発事故である。常世には何度も流された船が描れてはいるが、劇中で常に対峙するのはミミズの地震のみである。東日本大震災を彷彿とさせる場面は度々ありながら、現実的な脅威として語られることは、意外に少ない。強調されるのは、”戸締まり”のシーンで再生される声であり、過程はともあれ、失われた暮らしそのものである。

〈震災〉とは、地震そのものではなく地震によって起こる災いである。東日本大震災では津波や原発事故であり、阪神淡路大震災や関東大震災では火災が起こった。主人公・すずめが背負った運命である、震災孤児や避難もまた、災いであったはずだ。しかし、その項を省略し、結果として失われた日常を焦点化する。つまりは、〈震災〉=地震によって命と暮らしが亡くなったこと、と矮小化した図式に落とし込んでいるのだ。

正面から現実の災害を扱うと、必ず責任の問題がつきまとう。(汚染地域が出てくれば、東電が、政府が〜となるはずだ。)矮小化は、〈震災〉をエンターテインメントに昇華するうえで必要不可欠のことであったが、同時に、ある大きな"責任逃れ"を引き起こすこととなった。

東日本大震災のもう一つ大きな特徴は、「東北が最も被害を受けたこと」である。東京も確かに揺れはしたが、何万人もの命も暮らしも失われてはいない。津波は、海辺に住むことを選択した人々の宿命的な死ではあるが、翻って首都とは自然との決別の末に安全な暮らしを追い求めた街である。その安全かつ豊かな暮らしを支えるべくして、東北に原子力発電所は建てられた。

いわば、東京とは東北にかつてない〈震災〉をもたらした共犯者たちが暮らす街であった。が、計画停電やデマゴーグをはじめとする一連の東京の混乱によって、「東日本」の震災としてそれら全てを総括することにより、東京の加害性を漂白してしまった。東北と首都の分断を、国家が闇に葬ったわけである。(これは、内閣府の定義に明確に示されている)

現実の話であるが、ことさらに「頑張ろうニッポン」「絆」などのフレーズによって、国家的な共同意識が喚起されたことは、その後ろめたさを覆い隠すためであったのではないか、とさえ思う。

〈震災〉=地震(ミミズ)という矮小化した図式は、この現実と奇しくも重なるところがある。

劇中、(観光ツアーのために)日本を縦断する過程で、ミミズは同一の個体であり、各地に後戸があることが明らかになる。ミミズとは国家的な脅威、あるいは朝敵としてある。だから、いつの時代も、誰にとっても、〈震災〉とは日本の敵と描かれている。とってつけたような神話や伝承で無理やりに補強している。

海辺に暮らす人を自己責任と罵る者も、原発神話を信奉し続けた者も、天罰が下ったという政治家も、放射能の雨が降るとメールを拡散した者も、東京で数日後にはのうのうとPSPでモンハンに勤しんだ者も(これは僕です)、そんな連中も全て含めた〈日本のみんな〉にとっての敵なのである。

東日本大震災は国家的な脅威ではなく、被災者にとっての脅威でしかないだろう。また、少なからずこの国に加害者がいたはずだ。責任を取れ、とは言わないが、何食わぬ顔で「被害者の会」に名を連ねることは、"責任逃れ"だ。そこにこそ、この映画における矮小化の大罪が潜む。

「東日本大震災」が〈震災〉たりえたことに、無責任と無関心は大きな手を貸している。(そしてこの二つは、日本社会の本質でもある)

しかしこの映画を通じて描かれる〈震災〉は、〈日本みんな〉の敵でしかない。無責任に生きる人々に国家意識を喚起させ、「あの日を忘れない」「日本は地震と戦う国だ」と思うことで責任を果たしたかのような愚昧な錯覚を引き起こす構造に、この映画のカタルシスが存在している。(加えてその感動装置は、Japanese Animeとして海外で評価される、のか?)

意志を持たない暴走機械としてミミズが描かれていながら、愛と絆と不思議な力で結局抑え込めるのも、そもそもそんな単純な〈震災〉など存在しないことを雄弁に語ってしまっている。

○首都(≒ミヤコ?)の問題

東京の街を覆い尽くす大ミミズは、さながらスナックゴールドのようで壮観だ。あわや首都直下型地震か、という劇中でも屈指の緊張感を持って描かれるのは、皇居のお堀エリア付近、震災遺構の一つである御茶ノ水駅付近である。すずめに対し、セカイ系的二者択一=愛か世界か、を迫るというお約束ではあるが、常世以外では最も強大なミミズの力が描写される場面でもある。

しかし、考えてみる。東京の地震を、最も恐れるべきなのはなぜか?東北に生まれ、九州に移り住んだすずめにはゆかりもない土地である。関東大震災(ちょうど100年になりましたね)や安政の大地震といった先行事例は確かにあるが、何も地震の規模が他の土地よりも極めて大きかったというわけではない。北海道でも、新潟でも、熊本でも、能登でも、とんでもないエネルギーの地震は起こっていた。おどろおどろしくとぐろを巻くミミズは、欺瞞以外の何物でもない。

答えは明白。東京の地震が怖いのは、沢山の人が死ぬからだ。そこには、沢山の暮らしがあるからだ。ただ、それだけである。

とすれば、極めて興味深いのは、〈震災モノ〉においては、愛か世界かを選ぶという感動装置においては、犠牲者は多ければ多い方が盛り上がる、ということだ。考えてみれば当然である。守らなくてはいけない人数が多い方が、トロッコ問題は盛り上がるに決まっている。すずめと草太の愛は、田舎町ならばある意味では実現していたのかもしれない。

(先の問題と結び付けて、構造的なところにいきたいが、そのエネルギーがつきたので、ここまで。)

「ミヤコ」の「ミヤ」とは、天皇のこと。「~コ」が確か周辺、といった意味。ミヤコとは、王の周囲の土地を指す表現であったはずだ。確かに人口が集中するところであり、要所であり、災害を受けてはならない場所だったのかもしれない。

しかし、かつての平安京が、何度も何度も自然災害に見舞われ、時代ごとに遷都を試みながらも、それでも何世紀にもわたって都であり続けたことの意味をこそ、考えてみるべきか。

Snobbism

主に読んだものや見たものや考えたことについて書きます。

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