(黒歴史再掲)映画『シン・ゴジラ』感想――ビルド⊇スクラップ
(この文章は2016年9月24日に書かれました)
※先日の『君の名は。』の記事にコメントを頂きました。励ましのコメント、ありがとうございます。
2016年9月23日
18:51
今更ながら、先日、『シン・ゴジラ』を観てきた。
「ネタバレ注意」とのことだったが、宇野さんの評をはじめとして、幾つかの情報は見たうえでの鑑賞。
一番共感できたのは、なぜか田中圭一さんのパロディイラストで、尾頭ヒロミってすごくいいキャラだと思った。
まず、当然この手の記事は「ネタバレ注意」にしなくてはならないのだが、ゴジラが姿を変えることは、もはや誰もが知っている。ゴジラのことを知らないのは、作中の人物たちだけなのだ。(石原さとみ「ゴヅィー↑ラ」)
触れてはいけない主要なプロットも、特段見当たらないわけなので、その辺の配慮は特にしないことにする。
さて、日本万歳映画、官僚賛美映画、それらの感想は全く否定しないが、私なりにこの映画の感想を一言で表すならば、
「究極の〈快楽〉」である。
見知った町が、敵いそうにない馬鹿げた怪獣に破壊しつくされるのを、〈快楽〉と言わずに何と呼ぼう?
ここには、当然3.11の映像が重なる。瓦礫の山から、坂の上に逃げていく住民は露骨だ。それだけではない。日本の抱えるあらゆるリスクを体現するかたちで、♪ゴジラがやってきた。
使えない官僚たちをゴジラがあっさりと焼き殺してしまうのは、素晴らしく〈快楽〉的だ。それはあくまでフィクションだから、〈快楽〉なのかと、自分自身に問いたくもなる。それくらいに、ゴジラの破壊には救いがなく、意味もなく、個人の物語を敢えて想像させながら、あっさりとぶっ潰してくれるのである。
その〈快楽〉の根源は、さながら三歳児が積み木の山を崩していくような、人間に備わる破壊衝動なのだと、そんな陳腐なことを考えた。
しかし、その本質はもう少し、現代社会と関連させるべきなのだと思う。そうでなければ、社会現象になっていることへの説明がつかないからだ(破壊の限りを尽くすのは、どんな作品にもみられることである)。
『平家物語』をはじめとした軍記物語を〈王権の危機と回復の物語〉と呼んだのは大津雄一氏(『軍記と王権のイデオロギー』翰林書房)だ。敢えて一度、王権を危機に陥れ、共同体はそれを疑似的な危機として、実際にはできない反逆行為を、〈快楽〉として享受する。それでも王権が回復するという物語に包まれることで、不満などを〈減圧〉し、王権のさらなる絶対性を思うというのだ。
この枠組みを援用しながら、『シン・ゴジラ』を考えた。首都が未曾有の大被害を蒙り、米国(彼の国)からの原爆投下までも予測させておきながら、最後は生まれ変わった有能な新政府が、日本政府・日本国という威信を回復してくれる。
だから、あの物語は官僚が主役である必要があったのだ。
(王権という言葉を出したが、象徴天皇制の議論と、あの映画における天皇・皇居の不在という問題は、初代ゴジラとの関連性も含めて、深入りしたくないので伏す。)
ゴジラを倒すのに活躍するのは、戦争用の火器でありながら、それらは囮に過ぎない。関東大震災からの復興・戦後復興を支えてきた、建築用の重機であり、首都圏発達に欠かせなかった電車であり、医療に注いできた化学力なのだ。
だから、あの物語には、救いがある。日本は、まだまだやれる。
疑似的に、日本の真ん中に、北朝鮮のミサイル以上の化け物を召喚することで、日本の素晴らしさを、再確認できるのだ。
……それでよいのだろうか?
そのような救いでは、なんの浄化作用にもならない。
一番印象に残ったのは、最後のカットだった。
尻尾の周りについた骸骨は、口を開けていたではないか。だから、あの映画は、雄弁に演説する官僚ではなく、散っていた声なき声にこそ、意味がある映画なのではないか、と思わされるのである。
しかも、彼らは「凍結」されて、首都にあり続ける。
矢口は言っていた。この国の基本理念は、「スクラップ&ビルド」なのだ。この国は、滅亡してからも、何度でも立ち上がってきたのだ。確かに、これまでは、そうだった。
だがそれは、長年の経済不振、先の見えない高齢化社会、まさに民主主義と国際化の病を抱えてしまった日本という国に、何が必要かという問いを、簡単に明かしてしまう。
簡単なのだ。破壊すればいいのである。破壊すれば、この国には「ビルド」のための契機が与えられるのだ。
たとえば、関東大震災。永田町が壊滅し、都内が大混乱に陥れば、都内に住む多くの高齢者は命を落とし、また重病を患ったものは命を落とすことだろう。元気で健やかな若者、周りに優先されるべき子供が生き残り、政治家と国民は一致団結。(そんなことありえない、か?3.11の日に、どうしようもない政治家が、少し頼もしく見えたのは私だけではないはずだ。枝野なんて、何ら大したことなかったではないか)
隣国のミサイル、原発の大事故、それらの脅威(スクラップ)を体現する形で、ゴジラはいたではないか。
「スクラップ&ビルド」の「&」というのは、言い得て妙で、まさに「スクラップとビルド」であり、「ビルドとスクラップ」なのだ。コインの裏表程度の関係ではなく、いつかそれが、「ビルドのためにはスクラップが必要である」という文脈をも生みかねない。
『シン・ゴジラ』は、こんな閉塞的な未来しか見せられてこなかった(=「日本は終わった」・末法の世)、現代の最も簡単な打開策を、明かしてくれているのである。
その最も簡単な答えに手を伸ばし、「その日」を待つか。
スクラップなしには変われないこの国を、何とかしようと思うのか。
それは、「好きにすればいい」のである。
※某事件の被告の如く、老人とか弱者を殺せばいいとか、そのような危険思想をひけらかしているのではない。
ただ、今後そのような犯罪動機が増えていくのではないかと、危惧はしている。
(加えて、ノアの方舟のような新興宗教の流行も)
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