(黒歴史再掲)映画『君の名は。』感想 ――消費の先にある、空白化した話型

(2016年9月12日に書いた文章)


久しぶりの更新。ブームに乗るスタイル。

ゴジラをまだ積み残しているが、先にこちらを観てきた。

ネタバレを大いに含むので、まだ観ていない方が読むことはあまりオススメしません。

というより、カタルシスの大半が、中盤のプロットに拠っているので、快楽を半分くらい失うことになりますことをご了承ください。

映画「君の名は。」公式サイト

http://www.kiminona.com/index.html

あらすじは上記参照。

タイムリープものと男女入れ替わりものが「絡み合い」、純愛入れ替わりものを期待の地平に置きつつ、劇場のリア充たちを絶望の淵に叩き落とす。

でもやっぱり、セカイは救える。そんな話だった。

オタクたちにとって、定番と云えば定番だ。アニメ・ラノベ・ゲームの〈文法〉が備わっている読み手にとっては、おそらく二人は「結ばれる」だろうし、隕石で町が滅びたこともやり直せることは想像がつく。

「組紐」というお家芸はあまりに陳腐ともいえるアイテムだが、画の綺麗さと疾走感と純化された中二(≠厨二)サウンドが、映画を仕上げている。

(余談だが、アルバム1から4までぐらいのRAD世代としては、「洋次郎毒抜けすぎじゃね?!」という感想を抱いた。)

「疾走感」はこちらのブログから拝借。系譜的な考察も参考になった。

かたつむりの物語消費論ブログ

「リアリティ無き傑作――新海誠「君の名は。 ――your name.」

http://blog.livedoor.jp/semakimon1-semakimon1/archives/6965402.html

古典を修めていることもあって、まず想起されるのは『とりかへばや物語』だ。

が、こちらのブログに既に詳しい。

YOUTOPIAを目指して。

「映画「君の名は。 your name.」感想 入れ替わる場所/出会う場所」

https://youtopia-otama-blog.amebaownd.com/posts/1173757

貧乏性ゆえ、パンフレットは買わなかったが、小野小町は納得。

付言するなら、冒頭で提示され、手に告白の言葉を書き付ける場面の布石になっていた万葉歌の問題がある。

誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ

――『万葉集』第10巻2240番

黒板には「黄昏」と表記されていて、時間的なものを意識させていた(厳密には『源氏物語』夕顔との贈答を待たなくてはならない?)。

タソカレ→カハタレ→カタハレという言葉遊びはなかなか強引で、東北地方に「万葉言葉が残ってる」ってのも色々突っ込みはあるが、それを言うのもナンセンスか。

映画表題に結び付けながら、黄昏=運命に抗うことのできる最後の時間を招来するためのものだろう。

万葉仮名を「黄昏」と板書してしまうようなシニフィアンの戯れが、強固なシニフィエ(=片割れ)を引き起こす。

それは、「君の名」に固執して互いの存在を思い出そうとする二人の姿とも関わる。

思えば、「三葉」はあまりにもシニフィアン優位の名だ。祖母から「一葉」「二葉」、妹は「四葉」。

そもそもシニフィエなきシニフィアンたる「君の名」に固執し続ける物語は、「すきだ」という直球ど真ん中のコトバによって打ち砕かれる。「名」に意味などなかったことに気付いてしまった。

そういう意味では、はじめの万葉歌の「われをな問ひそ」=「私の名前を聞くな」の方にこそ目を向けるべきなのだ。

上代では、名を知られることは禁忌であるという習慣があったとされる。名を知る=領ることは、男が待ち続けることしでしかもたらされないという予言が、すでに冒頭からしてもたらされていたのだ。

まあ、このような戯言はさておいて、最も気になったのは次の記事である。

渡邉大輔「『君の名は。』の大ヒットはなぜ“事件”なのか? セカイ系と美少女ゲームの文脈から読み解く」

http://realsound.jp/movie/2016/09/post-2675.html

 実際、たしかに『君の名は。』は、何度も述べたように、物語的にも演出的にも、ジブリや細田アニメのような「国民的アニメ」「ファミリー受け」を明確に志向していない。また、かつてのぼくたち若い男性観客が支持したセカイ系的な世界観や設定も多く含んでいる。にもかかわらず、これもまたたしかに、他方でぼくは『君の名は。』を観たとき、決定的な違和感も覚えました。本作は表面的にはセカイ系的でありながら、しかしどこかセカイ系とは違う。

 それはおそらく、主人公の瀧がセカイ系的ヘタレ男子――『雲のむこう』の浩紀や『秒速5センチメートル』(07年)の貴樹などを思い浮かべてください――とは異なる、いかにも「ポストゼロ年代的」な主体的に行動し、運命を変えていこうとする「リア充的」なキャラクター像に変えられているからです。実際、こうしたモデルチェンジは、近年のオタク系コンテンツではしばしばありました。たとえば、『秒速』のセカイ系非モテ主人公・貴樹と『君の名は。』のリア充主人公・瀧の違いは、旧『エヴァ』の主人公・碇シンジと『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(09年)のシンジのキャラチェンジにぴったり対応しているといえます。だからこそ、『君の名は。』はまぎれもなくセカイ系的なアニメでありながら、どこかかつて観たものとは違う、セカイ系ならざるアニメでもあるわけです。ともあれおそらく新海は、こういったマイナーチェンジを細かく積み重ねることで、今回、「ファミリー向け」の作りでなくとも、「国民的」な規模の大ヒットアニメを作ることができると証明してしまった。ここにこそ、『君の名は。』の画期があります。

渡邉氏のいうことはもっともで、そこに肯定的評価を下しているのも分かる。

だが、東浩紀が以下のように述べていたのが印象的だ。

セカイ系と美少女ゲームの想像力がリア充キャラを主人公に据えることで奇妙にも国民的評価を得てしまった、という渡邉くんの分析はまったくそのとおり。ただぼくは、この「あと」になにが来るかという点では楽観的ではない。君の名は。は、一つの時代の始まりというより終わりを告げる作品に見えた。

— 東浩紀 (@hazuma) 2016年9月8日

「一つの時代の始まりというより終わりを告げる作品」にみえるのはなぜか?

かつて東氏が、『動物化するポストモダン』で述べていた、「データベース消費論」と絡めて思い当たることがあった。

主人公の「リア充」化――私なりに掘り下げるなら、あまりに没個性的であった。

瀧の人生は、なぜ母親がいないか?どのような家に生まれたか?は、何も明らかでない。友人たちも、頭が切れる悪友と、肉体派の優しい友達。昨今の作り物の言葉でいえば、「キャラが立ってない」。

三葉だけは例外かもしれないが、その性格はありきたりとしか言いようがない。どの記号でもない、と感じてしまった(ここは論証の余地がある)。

瀧が「口噛み酒」を飲むことで、遡及的に三葉の記憶を掘り起こす。そこではじめて、物語以前の物語に出会い、宮水家の確執や、父の苦悩などが描き出される。

しかし、悪口をいうクラスメート、明らかにくっつく幼馴染の男女二人、娘の気持ちを思いやれない父親、伝統に固執する祖母。糸守の人間も、同様だ。単一記号なのである。

四葉はツンデレでなければ、姉よりすごく天才でもない。

端的にいえば、単一記号なのだ。データベース的な消費をしていないから、そのような印象を生むのではないかと考えている。

しかし、キャラクターに比してプロットはデータベース的だ。隕石による町の滅亡、男女の入れ替わり、記憶喪失、タイムリープ、運命干渉、父と子の確執、一族の使命、時を越えた純愛。

あらゆる話型が、データベースとして参照され、消費されるために呼び寄せられる。

町民を避難させるために、三葉(瀧)が父親を説得する場面。父は、「宮水の人間」が虚言癖があると、かつてそうした予言を聞いたことがあることを明かしていた。

また祖母は、宮水家の血筋には、夢を見て入れ替わることが繰り返されてきたことを暗示した。

瀧は「この日のためだったんだ」というが、そんなことはあるはずがない。二人の物語すら、話型の一つであったことを、拒んでいるだけなのだ。

『君の名は。』は、〈父と子の物語〉という明確な話型を、もはや紡ぐことさえしない。

父と子の確執を描きながら、どのような言葉で、三葉が父を説得したのか。

てっちんこと勅使河原も、父への説得を果たしたに違いない。

父が二葉のことを「守れなかった」と後悔したのは、今度の事件と関連はないのか。

〈謎〉を残した、というのは綺麗事で、これはもはや〈謎〉ではない。答えはもう、明白だからだ。

消費される〈話型〉は、重層に重層を重ねると、消費されることすらなくなる――〈みなし消費〉とでもいうべきか。

だから、あの終わり方は怖いのである。

「君の名」を求めることの空虚さに気づいてしまった二人が、直感で出会えたとする終わり方は。

シニフィアンの無力性に直面すると、二人は「片割れ」でしかなくなってしまう。(すげー強引)

にもかかわらず、これだけのヒットなのだ。あの結末は、二人の最大限の幸福を〈みなし消費〉することを要請していたし、その通り〈みなし消費〉されたことだろう。

まとめるならば、『君の名は。』は、

データベースとしての話型を消費し尽くした結果、消費せずとも〈みなし消費〉できる話型を呼び寄せてしまった

作品であると思うのだ。

尤も、当然のことながら、物語はすべてを紡ぐことはできない。主眼がないから、語らなかった。瀧の人生などは、それだけのことなのかもしれない。

しかし、渡邉氏が一般向け・家族向けにしていない、と明言したように、ここで〈みなし消費〉される話型は、オタクが占有していたデータベース(入れ替わり・タイムリープ他)ではなく、極めて一般的な話型(父―子・時を越えた純愛)であったことと符合すると、考えている。

新海誠作品は、恥ずかしながら観たことがない。よって、同一監督作品との擦り合わせは必要かもしれない。

しかし、「ポケモンgo」「シン・ゴジラ」そして「君の名は。」。例年になく、中心的なムーブメントが生じているのは確かなのだ。

そこに無自覚であってよいはずがなく、ややもすれば危険なことだとも、思う。何が危険かは、分からないが。

最後に蛇足。

町の滅亡をもたらす彗星は、あまりに綺麗だ。いくら逃げるよう伝えても、足を止める者もいる。

3.11の津波映像だって、街を呑み込む映像は恐ろしさしかない。

滅びの美学というのではあまりに月並みだが、何メートルもの引き潮ののちに、海から真一文字に迫ってくる津波には、確かに美しさがある。

文学が滅びつつあることは明確だが、この作品の映像美が、話型の滅びの前兆であるようにも思えてしまった。

頓珍漢なことを書きまくってしまったが、発表前のストレスをすべてぶつけたということで。笑

とりあえずRADのアルバムは買います。


0コメント

  • 1000 / 1000